院長紹介

広尾かなもりクリニック
院長 金森 圭司

【略歴】
東京大学医学部付属病院研修医
東京大学医学部付属病院産婦人科
東京警察病院麻酔科
東京専売病院産婦人科
茨城県立中央病院産婦人科
東京警察病院産婦人科
東京大学大学院医学系研究科博士課程
愛知県立芸術大学非常勤講師

【所属学会等】
日本産科婦人科学会 専門医
日本抗加齢医学会 専門医
日本宇宙航空環境医学会 認定医
日本女性医学学会
日本産婦人科乳腺医学会
日本医師会認定産業医
日本医師会認定健康スポーツ医
国土交通省指定航空身体検査医

【社会的活動】
東京都港区医師会 理事
社会福祉法人恩賜財団母子愛育会総合母子保健センター愛育病院 運営委員
日本指揮者協会会員
スズキ・メソードOBOG会 理事
慶応義塾ワグネルソサイエティーオーケストラ三田会
119三田会 幹事
池井研究会三田会
港区三田会
音楽三田会


<以下、慶応義塾大学法学部政治学科 池井優ゼミ刊行書籍より引用>

【ボクが医者になった理由】


慶応の大学生活は、思えば私の青春の出発点だった。自由な雰囲気の中、オーケストラと池井ゼミで過ごした。文化庁から資金をもらい、世界を旅して歩いた。外交官にも憧れていた私であったが、音楽の魅力には勝てなかった。卒業の際に腕試しのつもりで受けた東京芸術大学に受かり、本格的にヴァイオリンの修行をすることになった。芸大在学中からNHK交響楽団でヴァイオリンを弾き、当時の名指揮者達、サバリッシュ、ホルストシュタイン、マタチッチ、スイトナー、山田一雄、朝比奈隆、渡辺暁雄、若杉弘などの薫陶を受けた。また、桐朋学園大学指揮科の研究生になり、尾高忠明氏に師事して指揮の修行をした。

音楽漬けの20代も終わりになり、よく考えてみた。このまま音楽をやり続けて本当に人に感動を与え、自分も満足できるような演奏を続けられるのか。人間の喜怒哀楽にもっと直接関わること、例えば痛いのが楽になるとか、病気や怪我が治るとか、もっと基本的かつ現実的な部分で人の役に立った方が自分もうれしいのではないかと思うようになった。当時私は、医学生のオーケストラを幾つか指揮していたが、彼らを見ていてなおさらその感を強くし、音楽は必ずしも職業でなくともやってゆけるのではないかと思い再度転身を決意した。幸運にも医学部に入学できて、ひとまわりも年下の同級生とまた学生になった。

今度は、学生の特権である長い夏休みを利用して色々なものにチャレンジした。乗り物が好きなので色々な免許を取った。飛行機とヘリコプターは日米両方の免許、それに航空級無線通信士、小型船舶1級、大型バイク(限定解除)などである。免許を取る毎に一緒に乗る仲間も増え、世界が広がっていった。また、音楽は生活費を稼ぎ出す重要な手段として残った。まさに「芸は身を助く」である。

現在は研修医として婦人科悪性腫瘍の患者さんの診療、手術に忙殺されて、寝食もままならないが充実した日々を送っている。

(東京大学医学部付属病院産婦人科研修医時に寄稿)


<以下、篤志解剖全国連合会 学生感想文集第9集「解剖学実習を終えて」より引用>

【祖父の献体から】

三ヶ月近くに及んだ一般体部解剖実習の最終日は、納棺の日でもあった。私は、ご遺体に手を合わせながら、また祖父のことを思い出していた。

私の祖父は、12年前に84歳の天寿を全うしたのであるが、その時、祖父の遺体は生前の自らの意志によって地元のM大学に献体されたのであった。当時私は、大好きだった祖父の遺志に敬意を表しながらも、なぜ、赤の他人である医学生が私の大好きな祖父の遺体を持っていってしまって解剖しなければいけないのだろうか。また、これだけ科学が進歩すれば、限りなく精巧に人体の模型を造ればそれである程度は実習できるのではないだろうか、などと疑問に思ったものであった。

それから年月が経ち、一度社会に出ていた私はある時、生命の神秘さ、尊さに目覚め、医学を志したのであるが、今回自分が実習でご遺体を解剖することになった時に、私は昔のことを思い出したのであった。

このご遺体も、家族や友人達を愛し、また愛されて生涯を生きた1人のかけがいのない人間であったに違いないと思うと、何か、このご遺体が自分の祖父のように思えてならなかった。また、このご遺体がここに運ばれるまでには、本人及びその家族の多大な善意があったことを思うと、われわれ医学生は、この大きな善意をよもや決して無駄にするようなことがあってはならないのだと肝に銘じたのであった。

解剖が進むにつれて、人体の組織というのはいかに精密にできているか、すべての器官が互いに関係を持ちつつ一分の隙もなくいかに複雑に造られているかに驚嘆するばかりであった。私は休憩時間も忘れて解剖を続けたことがしばしばであった。

私は、以前の精密な模型ができればそれである程度足りるのではないか、という考えが根本的に間違っていたことを認めざるを得なかった。

献体の多くの善意に応える為には、今この実習に一生懸命に励み、将来良い医師になって多くの患者さんの為に働くことしかないと実感した。

それを、正に“身をもって”教えてくれたのは、私の祖父と、私が解剖させていただいたご遺体なのであった。

(昭和62年寄稿)